僕は現役時代35試合戦った。
そのうちの34戦目のエピソード。
練習ではカウンターが上手く決まっていて、
試合でもそれで倒したいと思っていた。
僕のスタイルは打ち合いを好むファイタータイプ。
だけどその試合では封印して距離を取り、
カウンターを決める作戦だった。
杉田竜平の新しいスタイルを
披露したいという気持ちもあった。
しかし、
相手はタイの選手でくねくねしてやりにくかった。
タイミングがつかめず
カウンターは当たらないまま
試合は終盤まで進んでいった。
カウンターを狙うあまり手数が少なくなっていた。
そしてベテランらしく、
スタミナを使わず戦いたいという気持ちもあった。
観る者にとっては
つまらない試合になっていたのかもしれない…。
インターバル中観客席を見ると、
お客さんがちらほらと帰っていく姿が目に付いた。
あ然とした。信じらなかった。
自分はもう終った選手、
必要とされていない選手なんだと愕然とした。
「これで引退しよう…」
試合中にもかかわらず
そんなことが頭をよぎった。
試合は判定で勝ったものの、
僕の気持ちはどん底…。
情けない気持ちと、
応援に来てくれた方に申し訳ない気持ちで
その日は一睡もできなかった。
引退しかないとおもった。
引退することを最初に話したのは、
いつも僕のことを気にかけてくれていた、
バイト先で知り合った
自分の親ほどに年の離れた
年配の女性Nさんだった。
Nさんには何でも話すことができ、
いつも相談したり悩みをきいてもらっていた。
一緒に買い物に行ったりもしたし、
よくケンカもした。
理解のある人だった。
だから、僕の辛い気持ちも
理解してくれるとおもった。
しかし、引退のことを話すと、
「いま辞めたら絶対後悔する、
あと一戦でいいからやりなさい!」
と、意外な言葉が返ってきた。
でも僕は何を言われても辞めるつもりでいた。
「もう一試合やりな!」「もう出来ない!」
と、言い争いになった。
僕は涙を流しながら
これ以上は無理だと訴え続けた。
お客さんが途中で帰る試合をしてしまったことは、
それくらい僕にとっては
ダメージが大きく辛いことだった。
もうボクシング界にはいられない、
一日も早くボクシングから離れたいとおもっていた。
そんな口論が二時間くらい続き、
Nさんのどの言葉で納得したのかは憶えていない。
でも、結局僕はもう一試合だけ戦うことにした。
勝っても負けても次で引退すると決めた。
35戦目となるラストファイト、
勝つことが目的ではなく、
観ている人を魅了する試合、
誰もが納得してくれる試合、
大歓声が沸き起こる試合にすると決心した。
それは僕の真骨頂でもある、
決してさがらず、打って打って打ちまくり、
前進あるのみのファイトスタイル。
畑中ジムが掲げる『SOULBOX』、
魂のボクシングでもあった。
最後の試合に向け僕は自分自身を追い込んだ。
手を抜いた練習は一切せず、
一日一日、一瞬一瞬が最後の練習だと、
心を込めて練習した。
自分に嘘をつくことだけはしたくなかった。
試合までの3か月間、それを続けた。
そしてその集大成となる試合が、
2006年2月5日、名古屋国際会議場
≪東洋太平洋Sフェザー級タイトルマッチ≫
ランディ・スイコ
vs
杉田竜平
僕は第1ラウンド開始早々から
全力でチャンピオンにぶつかっていった。
2ラウンドにダウンを奪われたが、
それでもなりふり構わず前に出た。
…しかし、実力の差は歴然で結局第4ラウンド、
畑中会長のタオルで試合終了となった。
僕は畑中会長に抱きかかえられ大泣きした。
会場にいたお客さん、
解説の元世界王者のお二方にも
涙していただく試合となった。
観に来てもらった人に納得、
満足して帰ってもらいたい。
そんな人のためを思って戦った試合だったけど、
結局それは自分の喜びに変わっていた。
試合は負けたけど僕の心は満たされていた。
対戦相手も、
観客の心をも打つパンチ
勝ち負けよりも、
価値を蒔けるような戦い
そんなボクシングに拘るのは、
そんな僕の生の体験があるからに他ならない。
ボクシングは危険なスポーツにもかかわらず
未だに存続しているのは、
そこに感動があるからだとおもう。
僕はそんなプロボクサーを育てたい。